6月頃だったか、親が家をリフォームして賃貸に出す、それにあたって本も全部捨てるというので柏まで行って段ボールで送り回収。なかでも小松左京筒井康隆氷室冴子山本七平は無条件で全救出w あと一連の岩波少年文庫とかドリトル先生とかアシモフの科学発見シリーズとかな。
 おくさんが「小松左京すきなんだねぇ」という。「なんでわかったの?」と言ったら普通の家には小松左京はこんなにない、と(笑)。彼女にもハマっていただくには何からおすすめするのがいいですかねぇ。。
 でまずは(?)山本七平ということで「私の中の日本軍」を勧める(まだ読んでないやつはリンク先から買え。今すぐ→Amazonbk1)。
 前もちょっと取り上げてるな→これはてなで検索してちょっと見てみたところ id:URARIA さんのこの評がものすごく面白かった:
山本七平になぜかハマる
 あと爺もなんか書いてるな。

日本人は、現代日本人でも、若い層でも、はてなでもそうですが、言葉というものをコミュニケーションとしてしてのみ見ているので、世界に相対になってしまう。しかし、西洋においてロゴスが世界を作ったという、絶対世界と言葉と私、という関係性がまるでわかっていない。というあたりで、証言=証、というものが、まるで日本人(東洋人がそうかも)に通じてない感じはあります。

というのを読んでこの文章を思いだした:「ル・モンド紙の靖国報道

 それより、彼らは発せられた「言葉」をきちんと受け止める(評価する)なあという印象を強く持ちました。小泉氏の言葉を、安易に裏を読むでもなく、動機を勝手に読むでもなく、中韓ももちろんですが国内のメディアやら反小泉の人たちよりもまっすぐ受け取っているようではありませんか。さすが思弁・言論の本場と思いますね。

 日本のマスメディアの薄汚い「裏の政治的意図」のみの勝手読み報道(きちんとロジックを扱う知的訓練を受けていない、事実と意見の切り分けの仕方も分からなければ相手の論理の矛盾点を衝くこともできない人達が書いてるのが原因だと思う)には昔から本当に辟易してきたので、こうやって余所の国の「ちゃんとしたジャーナリズム」というのがどういうものなのかが少しづつ触れられるようになってきているのはネット時代の実に素晴らしい点だと思う。

 んで自分でも本を読み返してみてこれ↓

「私の中の日本軍」(山本七平)と靖国神社参拝問題

A級戦犯合祀当然とかいってるウヨ坊はいっぺん我らが皇軍というのが実際の所どういうものだったのか知るためにも是非是非これを読んでみてください。プロ市民の書いたものじゃなくて(物凄いアレな言い方をすれば)大東亜戦争にフィリピンのルソン島で砲兵として従軍し戦後は保守反動(笑)右翼評論家として諸君!なんかを主戦場として本多勝一なんかと戦ってた人の本ですよ!

私の中の日本軍(上) (文春文庫 (306‐1))

私の中の日本軍(上) (文春文庫 (306‐1))

ちょっとだけ抜粋しましょうか。

 戦犯容疑者収容所では、同じく戦犯ということで、内地のA級戦犯のことがよく話題になった。どこで手に入れたのか、ライフに載った東条以下の写真などが回覧されたりした。「東条のヤロー、飯を残して煙草を吸ってやがる」というのが、皆の憤慨のタネであった。というのは、われわれは目の玉が映るというので「メダマがゆ」といわれた水のような雑炊、三食で一日九百カロリー、「絶対安静の無念無想でないと消耗しますぞ」と軍医たちが冗談のように言った食事で、骨と皮の体をやっと保持しており、煙草の配給は皆無だったからである。
 写真を見ながら「チクショー、太ってやがる」とか「A級は全員死刑だろうな」などと話しあっていたとき、だれかが不意に「俺が裁判長なら全員無罪にしてやる」と言った。「エッ」といって皆がその方を見ると、彼はすぐ「ただし、全員松沢病院にタタキ込んでやる、あいつらはみんな気違いだ」と言った。だがこういう言葉は、戦争中は軍のお先棒をかつぎ、戦後一転して軍を罵倒しはじめた人たちの言葉とは別である。そこにいる人間はみな、累々たる餓死死体の山から、かろうじて生きて出てきた人びとであった。彼の言葉の背後には、補給なしで放り出されて餓死した何十万という人間が、本当に存在していたのである。そしてそこには、肉親を肉親の気違いに殺された者がもつような、一種の、何ともいえぬやりきれなさがあった。

こういう言葉が出てくる背景についてもうすこし抜粋します。

行軍について

 今ではもう想像も出来ないであろうが、日本軍というのは、そのほぼ全員が二本の足で歩いていたのである。もちろん例外はある。しかし例外は例外であって、兵隊は文字通りの「歩兵」であった。
 機甲師団や乗車歩兵の運用には膨大な燃料がいる。北ヴェトナムの戦車隊がどれだけの規模かしらないが、おそらくは大機甲師団といえるほどのものではあるまい。それでも、十七度線を越えてパイプラインを敷いているのである。日本軍では、パイプラインを敷設した例はないし、その能力もなかったし、第一、作戦の面積が広すぎて不可能であった。そこで一にも二にも、ただ歩け歩けの「歩兵」しかありえなかった。
 だが、一たび地図を広げてみると、この歩きまわった面積と距離はあまりに広大すぎて、おそらく今では、だれにもこれだけの面積を歩きまわるというその実感がつかめないであろう。この広大さに比べれば、たとえば東京の師団が京都まで進撃して、そこで戦闘開始になるなどということは、いわば最短距離である。しかしものはためしで、この距離を炎天下に徒歩で強行軍をしたら、どんな状態になるか想像してほしい。しかも全員が完全軍装である。自分の衣食住は全部背に負い、その上、銃器・弾薬・鉄帽・水筒・手榴弾等をもち、有名な「六キロ行軍」をやったら、いわゆる戦後派の、体格だけで体力なき人々などは、戦場の京都につく前に全員が倒れて、戦わずして全滅であろう。
 「六キロ行軍」とは、一時間の行軍速度が六キロの意味だが、これは小休止、大休止を含めての話だから、大体がかけ足になる。演習では一割から二割は倒れることを予定してやるわけだが、戦場では落伍兵はゲリラの餌食だから、「死ぬまい」「死なすまい」と思えば、文字通り蹴っとばしても張りとばしてもあるかせなければならない――これは「活」であって、前にかいた私的制裁とは根本的に違う。そして実をいうと、「活」を入れられている者はもちろん、入れている者も、目の前がくらくなっていて、半ばもうろうとした状態なのである。
 「人間は熟睡したまま歩ける」といっても信ずる人はいないであろうが、夢遊病者は熟睡したまま立派に歩いている。そして疲労の極の強行軍では、いわば人工的に夢遊病的状態を現出することは、少しも珍しくない。(以下2段落略)
 前述のように、日本軍は原則として全兵士が歩いていた。地図で見れば非常に短く見える距離も、重装備で歩くとなればこれは大変な距離である。「マレーの快進撃」などと当時の新聞はいとも気易く書いているが、タイ国との国境の北端からシンガポールまでの距離は、東京から下関までに等しい。南方の炎暑の下で、戦闘をくりかえしつつこれだけの距離を歩いている兵士が、その行軍の過程では、一切の思考力を失って、夢遊病者のようにただ歩いていても、それが当然である。
 さらに中国に目を移せば、広東省とか安徽省とか簡単にいうけれども、一省の面積が日本全体よりはるかに広いものは決して少なくない。確かに、日本軍は、人類史上最大にして最後の「歩兵集団」であったろう。「歩く」ということを基礎にした軍隊が、東アジアの全地域に展開するということ自体が、いわば狂気の沙汰である。従って歩かされている全員が、心身ともに一種の病的な状態になっているのが当然である。
 こういう場合、最初に起るのが幻聴であり(以下2段落略)
 以上の状態だけでももう十分な苦痛なのだが、苦痛はこれだけではすまなかった。(以下劣悪な健康状態についての8段落略)
 こういう状態の集団が宿営地につく。(以下宿営の労苦についての16段落略)
 だが以上ですべてではない。もしその日に小戦闘でもあれば、砲の大手入れがある。(以下5段落略)
 すべてが終っても、全員が寝につくわけではない。交代で衛兵と厩当番につく。(以下3段落略)
 第一、何よりも困るのが便所である。(以下人馬の糞尿についての3段落略)
 従って、日本軍はハエの大群に包まれて移動していたと言っても過言ではない。普通のハエ、大きな銀バエ、アブ。さらに入浴も洗濯もできない状態から当然発生するシラミ、ノミ。それに南京虫、ダニ等々々。事実、「戦場には必ずシラミあり」は日本軍だけでなく、外国軍でも同様だったようで、アメリカ軍にはDDTのほかに、収容所でわれわれが「シラミ取り粉」と呼んでいた特別な薬があった。しかし日本軍では両者とも皆無だからまさに害虫天国である。
 人間が休息すると同時に、彼らは一斉に蜂起して大活躍をはじめる。(中略)従って以上のすべての累積は、本当に、人間に耐えうる限度ぎりぎりの苦しみを強いるわけである。
 ところが、これらは日本軍の基準では普通の状態で、戦闘という極限状態でもなければ、敗退・全滅という最悪状態でもない、日常の行軍なのである。しかし世界的基準で考えれば、当時の世界でも、この状態そのものが、到底考えも及ばぬ残虐行為だったのである。
 それは「バターンの死の行進」によく表われている。炎天下の強行軍で、米比軍の降伏部隊がバタバタ倒れた。「なぜ車両を使わず、かかる想像に絶する残虐行為をしたのか」というわけで本間中将が銃殺刑になったわけだが、日本軍の基準ではこれが普通の状態で、日本兵自身が炎天下にバタバタ倒れながらの強行軍を強いられていたわけである。従って当時の日本軍の将軍たちは、当時の世界的基準でみても、全員銃殺刑にされて然るべき残虐な行為を、日本軍の兵士に対して行っていたことになる。
 (1段落略)
 強制収容所なみの苦痛を強いても、一日の行軍距離は四十キロが限度(実際にはこれも不可能)だが、この距離は、東名高速の神風夜行便のトラックが時速百二十キロを出すというのが本当なら、わずか二十分で鼻歌まじりで到達できる距離である。従って太平洋戦争とは、新幹線と大名行列の競走のようなものだが、この競走を東アジア全域という想像に絶する広い場所で、前述のような身体的条件のものが、強いられて歩きまわされたら、その一人一人が一体どうなってしまうか想像してほしい。

補給の軽視について

 炊事番への蔑視は、大きく考えれば補給の、および後方業務への軽視、同時にそれに従事する者への蔑視である。「輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョ・トンボも鳥のうち」とか「輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花が咲く」といった嘲歌が平然と口にされた日露戦争時代から太平洋戦争が終るまで、一貫して、日本の軍人には補給という概念が皆無だったとしか思えない。

 この「神がかり」に対する態度は四つしかない。「長いものには巻かれろ」でそれに同調し、自分もそれらしきことをしゃべり出すか、小畑参謀長のように排除されるか、私の部隊長のように「バカ参謀め」といって最後まで抵抗するか、私の親しかった兵器廠の老准尉のように「大本営の気違いども」といって諦めるかである。「バカ参謀」とか「大本営の気違いども」とかいっても、これは単なる悪口ではない。事実、補給の権威者から見て、インパール作戦を強行しようとする者が「神がかり」に見えるなら、補給の実務に携わっている者から見れば、大本営自体が集団発狂したとしか思えないのが当然である。彼らの気違いぶりを示す例ならありすぎるほどあるし、またあるのが当然である。何しろ、狂人でないにしろ「神がかり」が正常視されてその意見が通り、常識が狂人扱い乃至は非常識扱いされているのだから、そうでなければ不思議である。
 それがどういう結果を招来したか。悲劇はインパールだけではない。次はそのほんの一例にすぎぬが、たとえば『聖書と軍刀』の著者、大盛堂社長の船坂弘氏は「福音手帖」という雑誌の対談で次のように言っておられる。
「私の(行った)島は……アンガウルという小さな島でした。そこに初めは日本兵が千三百人いたんですが、食糧も水もなくて、結局一ヶ月で百五十人ぐらいしか生き残れなかったんです」「どうしていたんですか」「一ヶ月も水や食糧がありませんから、水のかわりになるのは……しょうべんぐらいのものだったんですが、しまいにそれも出なくなりました。食物はカエルやヘビをつかまえて食べました」
 牟田口司令官が「神がかり」なら、この作戦を強行したものは「狂人」としかいえない。従ってこういう状態におかれた者が前線から逆に大本営の方を見れば、そこにいるのは「気違いだ」としかいいようがないのである。実情は、すべてがアンガウル島であった。ニューギニアやフィリピンの戦死者を克明に調べてみればよい。「戦死」とされているが実は「餓死」なのである。もちろん餓死者は死の少し前に必ず余病を併発するから、さまざまな病名をつけることが可能であろうが、実際は餓死なのである。アンガウル島では千三百人の九割が餓死で、残る一割が戦死、船坂氏は奇跡的な生還者だが、ルソン島の「餓死率」もこれに近いのではないかと思う。従って「大本営の気違いども」といった言葉は、戦後のいわゆる軍部批判と同じではない。彼らがこれを口にしたのは戦争中であり、時には激戦のさなかであって、そこには非常に強い実感の裏打ちがあり、同時に気違いに殺される者に似た諦めがあったのである。