じゃあ本歌取りも同一性保持権の侵害なんだな?

はてブから辿ってこの痛いニュース

卑しい心の森には、私のすべての作品を歌うことは禁止する」…ついに川内氏 ジャスラックに申告 森進一、全曲歌唱禁止に

参照:「おふくろさん」のご利用について 2007.3.7 日本音楽著作権協会 (JASRAC)

 「おふくろさん」(作詞:川内康範氏、作曲:猪俣公章氏)の歌詞の冒頭に保富庚午氏の作とされる歌詞を付加したバージョンについては、著作者である川内氏から意に反する改変に当たる旨の通知がなされており、同氏が有する同一性保持権(著作権法第20条1項)を侵害して作成されたものであるとの疑義が生じております。

 このため、改変されたバージョンをご利用になりますと、川内氏の有する同一性保持権の侵害その他の法的責任が生じるおそれがありますので、ご留意ください。また、あらかじめ、改変されたバージョンが利用されることが判明した場合には、利用許諾をできませんので、ご了承ください。

 なお、オリジナルバージョンの「おふくろさん」は、従来どおりご利用になれます。

電波芸人と利権ヤクザ*1のどちらに対しても全くなんのシンパシーも感じないが、著作権(と誤訳されているところのcopyright(複製権))というものがもはや芸術*2を阻害する桎梏としてしか機能していない事を如実に示す好例として興味深い。

 「著作権」という誤訳にまつわる問題については前に書いたが、「著作者人格権」だの「公衆送信権」だの「送信可能化権」だのに至ってはもはや名前からして「権利」とよべるような代物ではないという点についてはおそらく全人類の98%以上に同意頂けるものと思う。ただ、そのとき書いた結論

被引用者・先行者の存在を意図的に隠蔽してパクるのは問答無用で悪

というのは、実はまだこれでも問題がある。文学作品などで芸術としての深みを増すため、あるいは読者への謎掛け、韜晦、カッコつけ、インテリっぽく見せたいスケベ心、などさまざまな理由から「被引用者・先行者の存在を意図的に隠蔽して」既存の作品をなぞる、というのはむしろ常套的なテクニックとなっている。これはどうするんだ?

 結局パクリなのかどうかというのはケース・バイ・ケースで人々の感性で判断するしかない。2ちゃんねるとか見た事がある人なら感覚的に分かると思うけど、名誉・評判のゲームとしての芸術という本来の道に立ち返ればそのへんはインターネットの発達により国家権力の介入なしで自然に実現されるのです。十分おおぜいの目があれば誰かが「これはパクリだ」と発見して祭になるもんです。火をつけようしてもいっこうに祭にならなきゃそれは人々の感覚としてパクリとは見なせないという事だ。


 そんで今回の騒動で思ったんだが、和歌の世界で「本歌取り」ってありますよね?あれも同一性保持権の侵害という事になっちゃうがいいのか?新古今和歌集は発禁処分に!と、こう主張する訳ですか?利権ヤクザのみなさまは。


 ちなみに現在の日本の同一性保持権の世界基準と比べての薄汚さ、表現の自由の侵害ぶりについては以下のような記事がある(スラドから辿った):
http://www.creativecommons.jp/news/2006/11/15/ccplv30_1.html

ここで、皆さんに理解していただきたいのは、世界的には、著作者人格権のうち同一性保持権は、日本の著作者人格権とは基準が異なる、ということです。日本の著作者人格権は、著作者の意に反する改変について同一性保持権を広く認めています。これに対して、世界的には、著作者の名誉声望を害する態様での改変に限って、同一性保持権の行使を認めている国がほとんどなのです。したがって、このような限定的な範囲での同一性保持権について尊重する、という方針を採ったとしても、日本で議論されているような「いかなる改変でも同一性保持権侵害になる可能性が否定できない」といった危険性は存在しないのです。(ちなみに、日本では、近年追加された実演家人格権では、この世界標準に合わせて「自己の名誉または声望を害する」改変のみに同一性保持権の行使を認めていますね。)

桎梏であった団塊の世代がようやく消えて行くこれから、我々が社会を変えていかなければならない。
ってなんかアジるの下手だな。まいいやともかく私はそう考えるのでグーグル様がひろってくれるようその旨ブロゴスフィアに置いときます。


*1:竹熊健太郎によれば比喩としてのみならず本物のヤクザであるそうな:『政界にあっては右翼・民族派の論客として歴代総理大臣の私設政策顧問をつとめ、70年代には当時の警視総監から乞われて「警視庁の歌」を作り、同時に「稲○会の歌」も作って週刊誌ネタになると、「裏と表があってこその世の中だ。どっちもお国のためには大事なんだ!」と啖呵を切った人ですよ?』 ←しかしなんで稲川会と書かずに稲○会と無意味な伏せ字にするのかね。

*2:私の見解としては、演歌やエロ小説と、いわゆるハイ・アートは連続的に繋がっており、その間に断絶があると考えるのは矮小な植民地根性だと思っているが、今回はそれが本題ではないので気に入らないなら芸能と言い換えても良い。