vs.リアルの衝突

図書館で適当に借りた「ネットvs.リアルの衝突」()、かなり違和感を感じた。ネットはリアルの一部だろ。人間と自然を対立概念としたうえで自然保護を謳うのに対して感じる「人間の活動も自然の一部だろ」という違和感と似てる。
 いうならば「ネットというヴァーチャルvs.国家権力というヴァーチャルの衝突」が正しい。
 本文中p.108以下ジョン・ベリー・バーロウの「サイバースペース独立宣言」には全面的に共感するものでありますよ。


「著作権」は誤訳である

copyright は「複製権」が正しい。「著作権」と訳したのは(おそらくはあたかもこれが自然権であるかのように見せかけるための意図的な)完全なる誤訳。
 こんなもんが人類が普遍的に持ってるような当然の倫理であるわけがない。オフサイドインサイダー取引の禁止と同じ、「ゲームを面白くするためにあとから付け加えた人為的なルール」にすぎない。下部構造がかわれば変化するどうでもいいものだ。現在アメリカが製造業で勝てなくなったもんだから圧倒的な軍事力を背景として恐怖とともに世界中に押し付ける事でいちおう流通してるトークンにすぎない。ヨーロピアンも中南米人もアジアンも、個人レヴェルで複製権を守るのが人として当たり前の倫理だと思ってる奴なんて少数派だ。国家権力に処罰されない範囲だったらなんの倫理的葛藤もなくコピーしてるよ。
 人間が社会的動物として存在する上で1万年前からもってる感情に準拠した自然権として重要なのはあくまで「被引用権」だろ。芸術でも学問でも、知的創造の世界は名誉・評判のゲームが本来の姿だ。複製権の独占によって直接巨万の富を得られるようになったのは近代以降の病弊。
 産業の世界には産業の世界でちゃんと特許、実用新案、意匠、商標という産業の世界のルールがあるんだから、それにさらに複製権なんていう屋上屋を重ねて人々の自由を奪わないと崩壊しますなんていってるような産業は、本来的に虚業であって崩壊してもらって構わない。
 ちなみにこういう素朴な感情は2ちゃんねるを観測すればよくわかる。被引用者へのリスペクトなしに勝手にパクるのは問答無用で悪、という感情は肥溜め2ちゃんねるでも共有されている。
 追記:いやぶっちゃけリスペクトはなくていいんだ。パロディだって芸術だ。「被引用者・先行者の存在を意図的に隠蔽してパクるのは問答無用で悪」といえば正しいかな。
 蛇足だがさらに追記:世間では知的創造の世界(もしくは公共性の世界)の論理と産業の世界の論理を意図的に混同する議論が満ちあふれているので、騙されないために「こいつは今いったいどっちの話をしてるんだ?」と注意する事が重要。繰り返すが、今や前者において重要なのは被引用権であって複製権ではない。後者においては、本当にその特定の産業(の特定のビジネスモデル)を保護することに、表現の自由を奪うほどの(ひいては民主主義社会の根幹を浸蝕するリスクを冒すほどの)価値があるのかという視点を忘れてはならない。