「教養」

JMM268Fで春具さんの『オランダ・ハーグより 第88回「英語の達人...」』をよむ。
内容の大筋には別に異論はないが、(話に出てくる人々含めて)「教養」の捉え方が旧世代の団塊モンだなあ・・・と苦笑いしてしまった。全世界的に知識人にとって「これはおさえとくアイテム」ってのが決まってた時代のひとだなぁ、つーか。

 わたくしは、「国語」「言語教育」というものを広義に解釈したいと思っております。すなわち、コミュニケーションの基礎となる国語というのは現代国語だけでない、国文学、国学までも含む歴史的継続性、すなわち「文化」をもいうものであります。外国生活をするにあたって、自分の国や文化に関する知識・教養を欠いているのはけっこう悲しいことで、たとえば先日、わたくしはスペインの同僚とお茶を飲んでおりましたが、話題は葵の上の話になった。あのお能六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が嫉妬、憎悪、確執、怨念を克服していく悲劇であるが(葵上本人は一度も登場しない)、ああいう心理劇は能舞台で観るよりも薪能の篝火で観たほうがいいねえ、という話になった。また、これは緒方貞子先生から伺った話であるが、先生が難民高等弁務官をしておられたころ、フランスのシラク大統領がジュネーブに来て国連関係者と夕食となるとシラク氏はかならず緒方先生を隣席に指名したそうである。そして、難民問題はそっちのけで(ということはなかったろうが)、道真とか河原左大臣とか西鶴とか近松とか、そういう話をするのを楽しみとされていたという。これくらいの話のできるヨーロッパ人はいまではゴロゴロいるのであって、わたしはそんな話は知らない、できませんとは逃げられないのであります。

 斎藤先生は「いかにして日本人が英語で日本文化を発信したか」というテーマで博士論文を書かれたという。結局、外国に出ているわたくしどもはよくも悪しくも日本を代表しているのであって、さまざまなレベルで日本文化の発信に寄与しているのであります。わたくしくらいの年齢になって教養がないねえといわれるくらい寂しいことはないからね、外国に出るのなら歴史も含めての国語を勉強しておきましょう。

 また逆の例であるが、いまは内務大臣となったドビルパン外務大臣は詩人でもあるといいますね。ランボーとかプルーストの研究で知られるという。つまり、あなたがドビルバン氏とお茶をするとき、紅茶にマドレーヌを浸しながら過ぎ去った夏の思い出を語ることができるか ... スワン家への道筋を語れるか ... これがわたくしが考える広義の言語教育の目的でもあります。

この手の「教養」っていうのは結局会話の引き出しを多くしてなるべく色んな種類の人と噛み合った豊かな時間を過ごせるように身につけるもんじゃん*1
別に興味もないのに話だけ知ってても意味ないし、だいたい相手が知らなければその面白さを相手のレベルにあわせて伝えられてこその知性と教養でしょ。会話の相手に「知らないと恥ずかしい」なんて思わせてしまうような話し方をしてる時点でそれは教養じゃなくて単なるオタクの知識自慢 *2。鍛えるべきはむしろそういう時に「ああオタクがなんかいってるな」と正しく判断してびびらないでいられるだけの胆力でしょ。
「紅茶にマドレーヌを浸しながら過ぎ去った夏の思い出を語ることができるか ... スワン家への道筋を語れるか ...」なんてののために本を読む、なんてのは全くのナンセンス。「それを知ってること」ではなくて、相手の出してきた話に合わせて、自分自身の興味で楽しんできた(それについて自分がぐるぐる色々考えて自分の血肉となった)ものを使って楽しく会話のキャッチボールを続けられるのが本当の教養ってもんじゃないすか?ドビルパンが「中座流後手8五飛車戦法の概要とその将棋史における意義」とか知らなくてもそれは別に彼にとって恥ずかしいことじゃないでしょ。逆も一緒。
日本人として日本文化に造詣が深い方がカコイイってのは個人的には同意。(僕のとーちゃんも子供の頃から能(金春流)を習っててそういうのが国際会議の事務方みたいな仕事に間接的に役立ってるのかも知らん。←父はかなり重度の音痴なのだが家で能の練習しててもやっぱり音痴なのよ。最初能ってのは変な節回しだな〜と思ってたんだが実は本人がアレなだけだったw)しかしだ、だいたいフランスの文系インテリの一部に「日本通」が多いのは、それを知らない他の文系インテリとの差別化が図れる便利なアイテムだから、というだけの事じゃん。まー日本人としてある程度そういう連中に舐められないだけの日本文化の「教養」は、一緒に仕事するなら必要かも知らんけど、そんな特殊なギョーカイの話を過度に一般化しないで頂きたい。(つーかふつうに日本で本読んでたらそういう連中よりはるかに日本文化についての色んな批評や評論の蓄積が身に付いてるわけだから、たとえある特定の事について知らなくても「そんなのくだらんね。なぜなら・・・。しかしこういう点では・・・」なんて混ぜっ返すぐらいはできるだろ。←いや別に混ぜっ返さないでもいいんだけど(^^;普通にマンガでもなんでも自分の得意なジャンルと絡めればいいだけじゃん。)


*1:この手の「教養」がそれ以上のものではない、それがあったからといって人間としての深みのある“正しい”判断をもたらすわけではない、という事を団塊世代(のエリート)は集合として自らの行動において身をもって痛いほど下の世代に伝えており、その結果この手の「教養」が軽蔑されるようになったのではなかろうか。いや春具さん個人は素敵だと思うんだけど。(ちなみにその辺の感覚で団塊世代を「あっち側」とするとマニュエル(40ちょい上)とかでも明らかに「こっち側」。僕が中野翠を好き[な/だった]のも、団塊世代に属しつつも一番最初に「こっち側」感のあるコトバを発したうちの一人だから。)僕には例えばこうやって色々考えてる人の方がよほど本質的な意味での教養があると感じられる。←同世代の書いた文章をwebでいっぱい読めるようになったのはうれしいことだ。←まぁ僕の世代ももうちょっとして集合として下から見たらキモイ鬱陶しい死ねとなるんだろうけど。

*2:団塊モンが好むコルトレーンだのマイルスだのも(いや僕も嫌いではないが)、みんなが知ってるべき「教養」として御勉強感覚で捉えてる時点でそもそも本当の教養ではない。