P2P(単なるひとのいけんの抜粋)

つまりは「採算に合わない」という理由は、攻撃的権利ブロックと合わさると視聴機会を殺されることを意味する。そこに誰かがどんな価値を持っていたとしても、採算が合う(と判断される)その日まで提供されることはない。見たいと思ったものが、見たいときに見られない、何故ならそれは提供されていないから、という話である。

これのどこが情報化社会なのだろうか。

実のところ、47氏が思い描いたP2P網が形成した積極的な意味合いとは、攻撃的権利ブロックによって提供されないニッチコンテンツが流通しうる土壌を形成することに成功した、という点である。既に売られなくなった昔の音楽、レンタル屋にも置いてない映画、旧ハードであるが故にやりたくてもやれない過去の名作ゲーム、これらを入手可能な世界というのは実はWinnyしかなかったのだ。

流通し終わったコンテンツを閲覧できる最後の場所、それがWinnyだったとするならば、それはもはやパブリック・プロパティーズだ。コンテンツの図書館と言って良い。私たちが聴いて育った音楽や見て楽しんだテレビ番組は商業著作物であると同時に文化財であり、これらが提供されないというのは社会に対する大いなる損失であるはずだが、何故かそのような声が上がることはあまりない。

商業主義的な物言いならば、対価が払われればそれで良い、という性質のものではない。何故なら、これらのコモンズの閲覧によって発生した消費者の時間的損失は、新たな創造物を摂取、閲覧する時間とトレードオフだからである。つまり、タダで時間を潰されたら新作映画も観てもらえないだろうし、ゲームも買ってもらえない。少なくとも、企業はそう考える。

しかし、こんにち私たちが生活し摂取している情報というものは(バーク主義的に言うのならば)先人たちが、それも十年やそこらではなく何代、何十代とにわたって考案し進化させ続けてきた知恵、知識の派生であり、完全にオリジナルなどというものは両親から言語体系を教え込まれた以上ありえない。

世界の著作権制度というものは、これら文化的な知識と商業的な価値とを社会的な合意として切り分ける作業のことであり、利用されず提供されない知識に対する権利は本来であれば一定のタイミングでパブリックなものとして閲覧、活用されて然るべきものではないかと思われるのである。

そうそうそういう事。ええ事言わはるわ〜。
しかし「誰も指摘しない」つかまさにそれがレッシグせんせいあたりの言ってることじゃないの?(と一冊も本を読まずに言ってみる。)P2Pのアイデアがみなさんを魅了したのってまさにその点でだと思ってたんだが違うんかね。