内田樹さんから

「原因」という物語を読んで思ったんだが、こういうのもだね、ちゃんと

ある父親は「ありきたりなものばかり」と吐き捨てた。別の父親は「学校も教育委員会も一言も謝罪しない。悪いのは犯人だが、管理責任だってある。腹が立つ」と話した。

こういう発言をした人間の実名が出るようになればそれだけで全然違うと思うんだけど。そっからまず欧米基準にしてくれよ、と。そんでさー「父親」が匿名にしてくれっていったらそれはそれで

ある父親は匿名を条件に「ありきたりなものばかり」と吐き捨てた。別の父親は匿名を条件に「学校も教育委員会も一言も謝罪しない。悪いのは犯人だが、管理責任だってある。腹が立つ」と話した。

っていうだけで全然印象が違うでしょ。
(追記:このへんを明示的にすることで日本のマスコミがあまりに「公的領域」と「私的領域」をごっちゃにしてるのが是正されるんじゃないかなと思うわけです。←最近essaさんとこで話が進んでるアレント風のいいまわしを借用。←アレント知らんけど。)
ところでこっから話が変わるが、この内田さんの元記事で主題となってる「原因」という病は別に普遍的なものではない。
ヨーロッパでは(知らんけどたぶんアメリカでも)、日本のような「誰も悪くない不幸な事故というのは存在してはならない、常に誰かが断罪されなければならない」という強迫観念はない。例えば交通事故では日本の法律だと常に強い側(自動車対オートバイなら自動車、オートバイ対歩行者ならオートバイ)に、事故を100%防ぐ注意義務が課されるが、こっちだと被害者側に過失がある、ということも普通である(らしい)。子供が飛び出してひかれたら日本だと運転者の注意義務違反になるけど、こっちだと親の管理責任になる、とか。
ちなみにこれは、マニュエル(ドイツ人上司、妻韓国人)が、韓国で女子学生が米軍の戦車にひかれて死亡して反米機運が盛り上がった話をして、「韓国では事故には必ず断罪されるべき誰かが必要とされる。不思議だ」と言ったので「日本でもそうだよ」という話になってそっからこういうことに気付いたものだ。アジア社会の倫理なんかね?
ちなみにうちのおくさん(元教師)に、内田さんが危機管理の陥穽

日本において「学校」は、江戸時代の「寺子屋」以来、教育機関であると同時に、遊び場であり、擬似的な家庭であり、癒しの場であり、アジールでもあった。
私はこの固有の学校観は日本社会にはかなり深く根づいていると考えているし、軽々に放棄してよいとも思わない。

とかいてたのはもっともだと思うといったら、「現実に日本社会が、何かあったらまわりから弁護士がよってきてすぐ訴訟、という方向を採用している以上、それを根本から変えない限り不可能な空理空論。これからの方向としては授業以外では子供たちを学校から閉め出す、という以外ない」といっていた。もちろん、ニーズがあるから課外授業(考えてみれば不思議な言葉だ)やらクラブ活動やらもやってたけど、それは教師の私生活を完全に犠牲にした滅私奉公的がんばりで非制度的に辛うじて支えられているに過ぎず、実際になんか事故があって訴訟をおこされたらもちろん負けること必至、という状況だったそうな。
(追記:おくさんから「そうではない。なんか事故があったときに言い訳ができるようにはしてあるから、訴訟で負けって事はないと思われる。でも、あくまでも『言い訳ができる』というだけであって、ぜんぜん『寺子屋』的良さは残っていない状況である、と言いたかったの」と突っ込まれますた。)
この、「現場に過大な要求をするけど、なんかあったら管理責任も追及」っていう息苦しさは、医者のタハラさんもドイツと日本で全然違うといっていた。(例えば、日本だと専門医でも一から十まで同じ医者が対応をすることが「人間的」とされ分業がなされておらず、結局殺人的な忙しさでかえって人間的な対応ができなくなる、とか。んでなんかあったら訴訟訴訟。)