収穫

一番の収穫はなんかまだまだ甘かったな、という反省。そんな意識はなかったんだが、アレックスとの議論により、良いツールの論文を書いただけでちょっと気が抜けてしまっていた部分があった、と思うに到った。もっともっと貪欲に、このツールで何ができるのか極限まで追及し尽くす姿勢が足りなかった。別に自分の仕事の話をメインにしたわけではないんだけど、刺激を受けました。まだまだ志が低かったな、と。その分野の世界最高の人と議論するというのは本当に大事なのでありますね。これがサッカーでいう「実際に試合をしてみて肌で感じる事の大事さ」という奴でしょうか。
超一流と普通の人の違いってホントにちょっとの違いで、局面局面でみたらたいしたことないんだけど、そのちょっとの違いを維持し続けられるかどうかで、最終的なアウトプットにはとんでもない差が出てくる、ってサッカーでもいうけど、ほんとそうですね。最近そういうちょっとの違いに敏感になってきたのは進歩だと思いたい。(もはや手遅れとかいうなかれ。)
ま、そういう「ちょっとの違い」に敏感になりすぎて気後れするのもよくないので、「ボールとゴールと自分しか見ない」という姿勢とどう高度に両立させるかが難しいんだけど。(という反省は、こないだのトリエステの会議でランドールに僕が内心ちょっとビビってた時に、アンディが「ランドールとかの発する質問聞いたか?世界最高の知性って言われる連中も質問聞いたら全然たいした事ねえよなぁ」って言うのを聞いて「おぉそうだそうだ、びびってはいかんな」と出てきたものであります。←SUSY2000の頃は俺もまだ若くてアンディと全く同じような思いを抱いたものだw 「ちょっとの違い」は本当にちょっとの、一瞬一瞬では大して変わらない違いなのであります。)
そういや去年キタノに聞いた話で似たような話があって、たとえばウィッテンって素粒子論業界の外でもアインシュタインみたいに持ち上げられてるじゃないですか。でもウィッテンたしかに凄いんだけど、その凄さはよく世間で言われるような宇宙人みたいな凄さじゃなくて、なんというか「まじめな東大生」をそのまま解析的に延長したような凄さで、なんでもほんとにとことん真面目に追及し勉強し続けるところから来てる、と。とんでもない閃きに見えるものも膨大な勉強により得たアイデア達の膨大な組み合わせが元になってる、と。でそういうのの積み重ねが、とんでもないアウトプットの違いを生み出す、とな。←たとえば、日本では現象論屋は弦理論を知らなくて弦理論屋は現象論を知らなかったりする悪しき傾向があるけど、プリンストンで一番現象論を知ってるのはウィッテンだったりするそうなw
「オダキンも会ったら自分の論文の話してみなよ」「ええ・・無視されそう」「いやだから『真面目』ってのはそういうところも『真面目』なわけで、どんな無名君の話でも、少しでも何かを吸収しようとして食らいついてくるわけよ」←そのかわり知り尽くしてる話だと冷たい部分もあって、セミナーのスピーカーが弦理論の時は、途中で出てく事があるとな。鼻歌歌いながら。スピーカー目に見えてガックリくるそうな。←そりゃぁなw
なんかアメリカって、高校ぐらいから数学コンクールとかなんとか色々あって(各高校にチームがあってランドールも隊長だったそうな)、ガリ勉をスポイルせずにそのままガリ勉として世界最高の知性に育て上げるシステムがあってちょっといいよね。ドイツもIQが高い子のための特別コースみたいのが小学校からあるらしいけど*1、日本もそういうの取り入れられないもんですかね。
つーかなんで日本ではガリ勉があんまりリスペクトされないんですかね。やっぱ明治以来の、欧米の知性がクリエイトした成果を日本に持ってくるだけで偉そうにしてる(浅田彰とかが典型?)というイメージが強くて、創造の前提としてのガリ勉、という概念が共有されてないからかな。明治以来、大学受験が厳しすぎたのが勉強→受験勉強というイメージになっちゃっていけなかったのかね。(ドイツなんて入試そのものがないもんな。)これから少子化で移民も受け入れないってことは、日本は長い長い斜陽の時を迎えるんだろうけど、そういう時ってうまくいくと文化は爛熟することもあるから、これからに期待ですかね。
あと忘れないように書いとく:

Speculative になる事を怖れない。


*1:追記:その後聞いたら、特別コースじゃなくて飛び級で一年早く小学校に入るということらしい。逆にいわゆる「早生まれ」の子は、一年遅く入学することもできる、というのがなかなか個人主義のドイツらしい。僕の同僚でも遅く入学した人がいた。