日本のマスコミはなんでこんなに国際水準に遥かに劣るダメダメな状態なのか

以前

最近読み返した山本七平ある異常体験者の偏見」で、日本のマスコミはなんでこんなに国際水準に遥かに劣るダメダメな状態なのかについてなかなか説得力のある記述があったので、いずれネット遊びをする心の余裕ができたらとりあげるかも。

と書いた。相変わらず余裕は無し無しですが10日程前のある晩ウェブ日記が滞ってるリハビリもかねてタイプしてみた。その後そのまま放っといたんだが、kmiura さんとこでのやりとり

にもなんとなく触発され(といっても直接の関係はないが)いちおうウェブに載っけとく。今から約35年前、1973―74年に書かれた文章である。(なおディスプレイで見ると超長文に見えるがこれ文庫本だとほんの数ページである。単位時間あたりに摂取できる情報量ではコンピューターはまだまだ本に遠くおよばない。欣註とあるのは私によるビギナー向けの註。といっても私も素人なので修正コメント大歓迎。)

 では一体マック制*1の基本はどこにあるのか。これの基本は、あらゆる軍事占領体制と同じであり、その底にあるのは一種の軍国主義的絶対主義である。私が比島*2に行ったときは、いわゆる「緒戦の大勝利」の後で、いわば「進駐軍」の一員として現地にいった。当時フィリピンは東亜解放の一環として解放軍=日本軍に解放され*3、ホセ・P・ラウレルを大統領とする「独立国」であり、われわれはそれを守るためにいるというのが「タテマエ」であった。私はそこで、「占領軍」と「原住民」の関係を、占領軍の側から見た。そして戦争が終って一年半後に日本に帰ったとき、私は「占領地日本」の「原住民」の一員であり、今度は「原住民」の側から占領軍を見た。この転換は非常に奇妙な印象として、私のみならず、多くの人に残っているはずである。「日本人がみなフィリピン人のように見える」「日本人はいまに全員フィリピン人のようになってしまうのではないか」祖国の第一印象をこのように感じかつ語った人は非常に多かったはずである。なぜそう見えたか、いろいろの理由があるであろうが、その大きなものの一つは、その時までわれわれは「占領地の原住民」を体験しておらず、常に「進駐軍の側」から原住民を見ていた。そしてその視点で「占領地日本の原住民」を見たので、占領下のフィリピン人と全く同じように見えたことも一因であろう。ついで占領下の一員となり「占領地日本の原住民の一人」として占領軍を見るということになった。同じような占領という事態を立場を全くかえて「占領した側」と「された側」の双方から見る結果になったわけだが、そのように見ると、やっていることの基本は、両者全く同じに見えた。


 占領地統治は、どういう外観を飾ろうと結局は「軍政」である。軍政はどういう形態をとろうと、もちろん何もかも軍人がやるというわけではない。軍隊には行政能力はなく、治安の維持という警察の機能も持たない。これはよく誤解されるが――。いわば常に「面」は支配しえないのである。一個師団といっても一万五千人にすぎず、ちょっとした球場のスタンドすら満席にできない数である。これを民衆という大海にばらまいても何の威力も発揮しえないから、占領地の「原住民の政府」の背後にあってこれを威圧統制し、同時に民衆を間接的に威圧するという形になる。が同時に自分はなるべく姿を現わさない。 これがいわゆる軍政の基本型で、この基本型においては、マックも日本軍も同じである。


 軍政と民主主義とはもちろん絶対に相いれない。「原住民の政府」がいかに民主的外観を装っても、最終的な決定権は「軍」が握っているのであって、投票が握っているのではない。ところが戦後の日本は、軍政と民主主義の両立・併存という非常に奇妙な形で出発した。この絶対に両立し得ないものが両立しているかのように見せるには、その背後で密かに民主主義の根本を除去してしまうこと、すなわち一種の詐術が必要であった。それがプレスコードである。言うまでもなく民主主義の原則は言論の自由である。そして言論の自由の前提は、多種多様な視点からするさまざまな情報の提供である。マックはこの根本を完全に抑えた。戦争直後人びとは言論が自由になったように思い、戦争中のうっぷんを一気に吐き出すことを、言論の自由と錯覚していた。しかしその背後には、情報の徹底的統制と直接間接の誘導・暗示、報道・論説という形の指示があり、人びとは、それを基本にして声を出しているにすぎなかった。そういう形の言論の自由なら、どこの占領地にもあっただけでなく、大いに奨励された。これが宣撫工作である。この方法を言語論から見て行くと非常に興味深い。パウル=ロナイ教授が『バベルへの挑戦』の中で、言葉には「伝達能力」があると同時に「隠蔽能力」があることを指摘している。あることを知らせないために百万言を語る(これも宣撫工作の原則の一つだが)という最近の一例をあげれば「林彪事件」の報道であろう*4。すなわち「林彪事件の真相」を知らせないために多くの報道がなされた。これは少しも珍しいことでなく、戦争中もプレスコード時代も絶えず行われていたことで、現在では外電との対比が可能で外国の新聞も買えるから、その報道の真実性に人びとが疑問をもつだけで、情報源を限定してしまえば、「報道することによって、事実を隠蔽する」ことは、実に簡単にできるのである。従って情報の根元を統一して一定の枠を設け、その中で「言論」を自由にしておくということは、プレスコードというマックの綱とタイコの下で「自由」に動いている猿まわしの猿と同じ状態にすぎないわけである。


 占領下の言論統制プレスコードの実態は不思議なほど一般に知られていない。マスコミ関係者がこの問題をとりあげると、必ず、例外的な犠牲者を表面に立て、自分はその陰にかくれて、自分たちは被害者であったという顔をする。それは虚偽である。本当の被害者は、弾圧されつぶされた者である。存続し営業し、かつ宣撫班の役割を演じたのみならず、それによって逆に事業を拡張した者は、軍部と結託した戦時利得者でありかつ戦後利得者であって、「虚報」戦意高揚記事という恐るべき害毒をまき散らし、語ることによって隠蔽するという言葉の機能を百パーセント駆使して「戦争の実態」を隠蔽し、正しい情報は何一つ提供せず、国民にすべてを誤認させたという点では、軍部と同様の、また時にはそれ以上の加害者である。占領下の言論統制プレスコードという問題になると、この点の究明は避けるわけにはいかないが、細かい点は別の機会に譲るとして、多くの出版人が言うように「プレスコードのしめつけは東条時代よりひどかった」のは事実であろう。

 
(略)
 

 プレスコードによって情報源を統制してしまえば、あとは放っておいて「自由」に議論させればよい。そしてその議論を誘導して宣撫工作を進めればよいわけである。この点日本の新聞はすでに長い間実質的には「大日本帝国陸海軍・内地宣撫班」(と兵士たちは呼んだ)として、毛沢東が期待したような民衆の反戦蜂起を一度も起させなかったという立派な実績をもっており、宣撫能力はすでに実証ずみであった。これさえマック宣撫班に改編しておけば、占領軍に対する抵抗運動[レジスタンス]など起るはずはない、と彼は信じていた。これは私の想像ではない。私にはっきりそう明言した米将校がいる。そしてそれはまさに、その通りになった。「史上最も成功した占領政策」という言葉は、非常な皮肉であり、同時にそれは、その体制がマックが来る以前から日本にあり、彼はそれにうまくのっかったことを示している。そしてこれは戦争中の軍部の位置にマックを置いてみれば明らかであろう。


 「占領統治・宣撫工作」の基本図式は、日本軍がやろうと米軍がやろうと同じことである。まず「民衆はわれわれの敵ではない」と宣言する。何しろ「一億玉砕」とか「徹底抗戦」とかいうスローガンを掲げて、竹槍まで持ち出していたのだから、どんな復讐をうけるかと思っていたところに、こういわれるとホッとする。一方占領軍は民衆の散発的抵抗という、最もいやな問題に直面しないですむ。そこで「占領軍は民衆の味方であり保護者である」と宣言する。ついで「お前たちをこのように苦しめた一握りの軍国主義者はわれわれの手で処罰する」という。今の新聞人の中にも、軍報道班員として南方に行き、ちょっと表現をかえればこれと全く同じことを「原住民」に言っていた人がいるはずである。このヴェテランたちが今度は「占領地日本の原住民」に同じことをいっている――これが「日本人がみなフィリピン人に見えた」理由であろう。そしてこの宣撫班的体質は、おそらく昭和五年か十年*5ぐらいから延々とつづいているのであろうから一朝一夕にはくなるはずはない。従ってその後輩である本多氏*6や新井氏*7に「一握りの軍国者……」とか「民衆と帝国主義者を分けることを知っている」とかいう宣撫用語が生[なま]のまま出て来ても、驚くにはあたらない。


 だが、この問題で他人ばかり批判するのはいささか片手落ちであろう。というのは私自身この言葉を口にしたからである。私は宣撫班員ではないが、比島は本間司令官以来「一人一人が宣撫班員であれ」という最高方針があり、また対住民折衝のいわば「渉外係」として原住民と接触するという立場になると、否応なしにこういう姿勢にならざるを得なくなるのである。従ってこの行き方は軍政なるものに必然的に付随するようにも思う。第一「お前は敵ではない」と宣言しなければ「対話」はできない。では敵でないなら、なぜこの国へ侵入してきたのかとか、なぜわれわれに干渉するのか、となると「それは、百年にわたり東亜を侵略した米英帝国主義者からアジアを解放するためで、従ってお前は私の味方であって、米帝国主義者や一握りのその手先は日比共同の敵である。従ってその敵と戦うためお前たちの協力を求める」という言い方しか出来なくなるのである。相手はその言葉をどこまで本気で聞いたかわからないが、一応「うけたまわって」おけば、何しろ敵ではないと言われたのだから、自分が安全なことは確かである。何しろ相手は武器をもっているから反論はできない。そして本当の反論は、武器には武器という形になるであろう。従ってこれは対話のように見えるが、実はきわめて一方的な宣言にすぎず、「占領軍の命令指示に従え、そうすれば生命財産は保証する。ただし敵対するなら射殺するぞ」という一方的な命令を、「対話」の形式でいっているにすぎないのである。これが宣撫なるものの基本型であり、以上の台詞がその原則の一である。


 この点ではマックもマック宣撫班もまたある面では北京も同じで、その差は私という一個人が口で言った原則を、新聞・放送を通じて複雑な表現で言っただけであり、違うのはただ伝達の手段と表現だけであって、伝達する内容は結局は同じことにすぎない。そしてそうするのは、それが占領軍にとって有利だからだ、という理由だけである。結局占領軍の原則とは「占領軍に有利」ということだけであるから、たとえ原則らしいことを口にしても、それが自己に不利ならば、平然と自分の原則を自分で破る。たとえば経済力の集中は排除する、独占は許さんと言っても、軍の移動に必要ならば当時独占企業であった日本通運はそのままにしておく。戦時中の独占的書籍雑誌配給企業である日配(日本出版配給株式会社)は解体しておきながら、単行本の配給機関などとは比較にならぬほどおおきな影響力をもつNHKや大新聞は解体せず、自己の宣撫工作のためにそのままにしておく。さらに、非武装の新憲法を称揚したかと思えば、東洋のスイスであれと言ってみたり*8、そうかと思うと警察予備隊をつくれといったり、満州爆撃を主張したり、蒋介石を訪問したり、一見全く無原則である。しかし「占領軍のために有利」という点から見ると、彼らは、否われわれも同じだったが、それだけが絶対の原則であり、そこでどのような手段を使っても絶対に避けようとすることは、占領軍が徹底的に不利な立場に立たされることである。そしてその最たるものは占領地のあらゆる不平不満が占領軍に集中して来て、ついには爆発して、両者の正面衝突となり、収拾がつかなくなることである。ひとたびこれが起れば、アメリカにおけるマックの声望は一瞬にして急落する。しかしどの社会にも不平不満や利害の衝突は必ずある。そこで宣撫班は、不平不満はいかなる場合も「原住民の当局に向うよう」誘導しなければならず、また「原住民の政争その他の争いに直接介入してはならない」のである。こうすれば、自分は矢面に立たないですみ、あらゆる不平不満は原住民の政府に向うだけでなく、これは一種の分割統治となるから原住民が結束して占領軍に刃向う心配がなくなるわけである。従って占領軍はたえず原住民の分裂を策し、また常に野党の立場に立って、原住民を原住民政府に向わせ、そのエネルギーを自己に集中させないようにする。これは宣撫工作の原則の二である。


 実際、このように見てくると、吉田自民党政府*9へのデモくらい滑稽なものはあるまい。これはまさに茶番劇である。デモを仕掛ける相手があるとすればマック司令部のはずである。ところが、マックの乗用車がデモ隊に囲まれたといった事件は、ただの一回も起っていない。事実マックは常に高みの見物だが、占領軍は常にそういう行き方をするものであろう。それはおそらく私でも同じで、比島に米軍が来攻せず、長期占領の不満が爆発した場合、もしそれが占領軍に向わずに、デモ隊がマラカニヤン(大統領府)でも包囲したときけば、おそらくほっとして、見物していたであろう。だが実際に真に批判さるべきことは日本軍にあった如くに、マック司令部にも批判さるべき多くのことがあった。「スキャピタリスト」という言葉は私が比島の収容所にいる間にすでにあったように思う。この言葉にはいろいろな意味があったであろうが「スキャップ(連合軍最高司令官)の奴ら」という蔑称もあったと思う。ついにその醜状をGHQの一女性(?)がニューヨーク・タイムズ(?)に投書した。正確に憶えていないが、その切抜きを入れた「お国の新聞でも問題になっているでしょうが……」という手紙をある人からもらって、はじめて知ったわけである。先方はもちろん「日本で問題となっていると思うが、アメリカの新聞も看過しているわけではない」という意味で送って来たのであろう。これはもちろん日本が民主化されたと信じている善良な一米人の誤解で「当時の新聞=宣撫班文書」にそんなものが載るわけはなかった。それどころか「スキャピタリスト」という言葉の存在すら、だれも知らなかった。そのように宣撫とは、常に本当の問題を隠して、民衆の目を別方向に向けさせるよう、あらゆる情報を統制した上で、あらゆる誘導を行うのである。


 宣撫のもう一つの原則は「原住民に深く考えさせないことと直接的情報を受けさせない」ことである。というのは宣撫班の言っていることは、ちょっと静かに考えれば、だれが口にしようと「子供だまし」で、常識のある社会人に通用する代物ではないからである。と同時に社会人は社会に生きているから、身近から直接に情報がとれる。物価があがった、物資がなくなった、食料を売ってくれない、闇値が高騰した等々から、どこにゲリラが出た、だれだれが消えてなくなった等々まであらゆる情報があり、どんなに情報を統制しても、この直接的情報は消すことはできない。中国人やユダヤ人はこの直接的情報を組織化することが上手だそうだが、戦争中日本にいた中国人は、直接的情報だけで、日本の敗戦の日時を正確に予測していたそうである。これは宣撫班にとって最もこまる問題であり、一歩誤れば宣撫工作はこの点で瓦解する。そして、これに対処するため、宣撫班は二つの方法を使う。一つには絶えず架空の「危機」を言いたて、同時に「占領体制」に批判的な人間にその危機の原因を転嫁して糾弾し、これを沈黙させてしまう方法である。これは二方向に作用する。人間は危険の表示に非常に弱い。ただの水をビンに入れ、これに「劇毒」と表示しておけば、だれも絶対にふれないが、同時にそれに注意が集中して、他のことが念頭になくなってしまう。そして対象を変えつつ、たえずこれを行うと、人間は思考力を失って、指示された方のみを見、指示された通り反射的に動き出すようになってしまう。兵士の心理的訓練にもこの方法が使われるから、いわば「原住民」をある程度は、軍隊を動かすように動かしうる状態にもって行き、宣撫班が直接間接に与えるさまざまな指示しか見ず、指示された通りにしか動かないようにしてしまうわけである。


 この面に関する限り、宣撫班による被害は、実に昭和五年ごろの「非常時」「超非常時」の叫び以来、半世紀近くわれわれは受けつづけているのである。日本人が天性暗示に弱いとか扇動に乗りやすいとかいうのは恐らく誤りで、情報を遮断され、絶えずアントニーの詐術にふりまわされ、そのうえ絶えず「危機」「危機」とやられればどの民族でもそうならざるを得ないと私は思う。そしてこれは新聞宣撫班が日本に流した最も大きな害毒の一つだと私は思う。その表われの最近の一例をあげれば、有機水銀による魚の汚染であろう。この汚染は新聞に報道される前からあったし、報道中もあったし、報道をやめてしまった現在もある。おそらく現在もほぼ同じような状態であって、新聞が報道をやめたからといって魚の中から水銀がなくなったわけではない。では人びとは何かの正確な情報に基づいて正確な基準を立て、その基準に基づいて魚を食べ、あの報道時の神経質さで調理しているだろうか。おそらくだれも何もしていまいし、魚屋の店頭は以前のままで、何も少しも変ってはおらず、人びとはケロリとすべてを忘れているような状態であろう。そうなるのが当然であって、われわれが行動の基準とすべき正確な情報は、常に、あのような形では来ないのである。従ってわれわれは何かを知らされたようでいて、実は、行動の尺度とすべき情報は少しも周知徹底させられたわけではないのである。だが汚染魚パニックは昔話ではなく、数カ月前のことである。過ぎたことは忘れてしまうが、昭和五年ごろから、実にあらゆる面で、危機・危機・危機の叫びは絶えずくりかえされている――一つ終れば、また一つと。人間も生物だから、絶えずこれをくりかえされていると、断続的な私的制裁の恐怖の下に置かれている兵士と同様、行動が衝動的反射的で思考は不能という状態にならざるを得ない。そうなってくれれば、宣撫班はこれを思うがままに操ることができる、操れれば「原住民」が一致して自分に立ち向かう心配はない。そればかりでなく、それを「占領軍にとって好ましからぬ人間」への攻撃へと誘導すれば、自らの手を汚さずにある人間を抹殺し、ある人間を沈黙さすことができる。いわば一石二鳥で、これが最初にのべた二つの方法である。


 以上にのべた宣撫の原則の基本にあるものは何か。それは宣撫とは軍事行動であり戦争でり、従って、あらゆる方法を駆使して打倒すべき敵がおり、そのためマスメディアを使っての手段を選ばぬ作戦と戦闘が展開されているのであって、その実態は情報の提供という意味での報道とは全く別だということである。従って宣撫班は敵がいなくなれば存在理由を失う。戦争中は確かに敵がいた。従って宣撫班は架空の敵をつくる必要がない。しかし戦争が終ったら敵はいない。そこで平和時の「軍政」では、軍政を維持していくためには、宣撫班はまずありとあらゆる架空の敵を作り出さねばならない。戦犯・パージ・レッドパージ、右翼の追放、共産党の追放等々々から戦争の責任の追及まで――ただし、宣撫に使えると見たものは、全部、温存しておいたのだから、民主化のためだなどとは全く白々しい。この細部を見ていくと全く無原則に見えるが、その底にあるものは「軍事占領」であり、「自軍に有利」の原則である。そして温存する場合、必ずその組織内の「戦争反対者」を表面に出して実体を隠蔽した。もし、冷たい戦争の時期が少し早く来て、マックが、日本の陸軍を温存することが占領軍に有利と判断したら、自衛隊を新たに創設することなく、東条に抵抗し開戦に反対して追放された軍人を表面に立てて、同じことをやったであろう。そういう人はいくらでもいた。彼らは専門家で実態を知っていたから、おそらく、宣撫されていた者より「戦争反対者」は多かったはずである。


 新聞は新しい「権力」だなどといわれるが、「新しい」は誤りで、戦争中から、最高の権力者であった。プレスコードで統制された新聞とは、連合軍最高司令官の機関誌に等しいから、これを批判することは「占領政策批判」であり、そういうことをする者は、抹殺さるべき「好ましからぬ人物」であった。スキャピタリストの失策と汚職・腐敗を徹底的に糾明せよとか、その問題は日本政府に決定権がないから、デモ隊は国会へのデモなどやめてマックの乗用車を取りかこめとか、コストを無視した進駐軍施設の急造がインフレの最大の原因だからストップしろなどということは、もちろんだれも言えず、そういった不満を「原住民政府」と「架空の敵」に転嫁して、占領軍の安泰を計り、かつ「占領地日本の原住民」を相互に争わせてその勢力を減殺さすべく、宣撫班は実に忠実に行動したわけであろう。そして人びとは、言論の自由があると錯覚させられており、プレスコードの存在すら知らないままでいた。


 しかしこれは、戦後のことでなく、実に、戦争中からであった。その当時の新聞は、うっかりそれを批判すればそれはそのまま「軍部批判」となった。配属将校の耳にでも入ったらそれこそ大変と、親切な先生からコンコンと諭された体験が私にはある。もちろん立派な批判をしたわけではない。私が迂闊なので、ついついある記事を「こりゃ嘘だ、軍部へのオベッカだ」と言っただけである。それが問題になるくらい新聞とは恐ろしい存在・絶対の権威であった。従って絶対的権力者であった――もちろん虎の威を借る狐だったのであろうが。そしてこの状態がはじまったのは、前述のように昭和五年乃至十年ごろからではないであろうか。思えば実に長い期間である。


 マックは去った。しかしマック制は存続した。ひとたび権力を握った者は、革命なしではその権力を手放すことはないという。その通りであろう。そして不幸なことに、マック制という軍政擁護の錦の御旗に「新憲法」がつかわれた。すなわち最高決定権はなお軍司令部宣撫班にあるという形態である。憲法で定められた通りなら最高裁のみが違憲の決定ができるはずである。しかし占領体制はそうはいかない。たとえ最高裁が何をいおうと、マックが違憲だといって、そう新聞に出れば違憲なのである。従って新聞は最高裁の決定をくつがえしうる絶対的な権力となる。

 
(略)
 

 こういう例をあげれば昔も今もきりがないが、もう一つだけあげると「世論」という言葉である。古い人の話によると「世論」という言葉はプレスコード時代には「マックの御意向」の意味で、彼が日本政府へ国会の解散を命じた書簡も、「命令」とか「占領軍の指示」という言葉は使わず「世論」という言葉を使っているそうである。「これは世論である」という非常に奇妙な断定に人びとが抵抗を感じず、少しの違和感ももたずにそれに従うのも、マック制の特徴であろう。そしてこの「世論」には「無記名投票の結果」という意味乃至要素は実は皆無なのである。もちろん占領軍司令官は、原住民の選挙の結果などには左右されない。そしてその結果が自分の意に満たなければ、宣撫の別の方法を考えるというだけである。たとえ彼が口で何といおうと、無記名投票の権威や多数決原理は、占領軍軍政が絶対に認めないことはあたりまえである。従って宣撫班はその意をうけ行動する。いずれにせよ占領体制とは、どのように仮装しようと、軍司令官とその手先である宣撫班以外には、一切の権威は認められないという体制なのである。この体制が、いかに強固に維持されつづけたかを示す資料としては、もし巷間いわれる「北京の密約」が事実で、その内容があの通りなら、これはあくまでも仮定だが、これこそ最も良き資料といえよう*10。これも一種のプレスコードなのである。おそらく北京の当局者は、マック時代のプレスコードの運用と、その結果と、日本の新聞の宣撫の実績とを分析して、その宣撫能力を的確に把握したものと私は思う。


 この文章が書かれてから35年、何も変わっちゃいないと見るか、いやいやネットのおかげで少しづつでもマシになって来てると見るか。どんなもんですかね。
 現在の米英によるイラク占領の無惨な失敗についても色んな示唆を与えていると思います。
 こんなのもリンクしておく「報道におけるタブー - Wikipedia」。
 ちなみに現在でも日本における報道の自由は、記者クラブ制度の存在(とジャーナリストへの暴力を警察が事実上野放しにしている事)により、国境なき記者団からたいへん低いランキングを与えられている(国境なき記者団 - Wikipedia)。韓国より下。原文を読むと至極ごもっともな指摘が:

The rise of nationalism had a negative impact on press freedom and there has been a rise in the number of assaults and threats. The government has not undertaken any reform of the system of kisha clubs which obstruct the free circulation of information.

試訳:

国粋主義の勃興は報道の自由に負のインパクトを持ち、襲撃と脅迫の数も増えてきた。政府は情報の流通を妨げる記者クラブ制度を全く改革しようとしない。

前段について「国粋主義の勃興」が原因というよりは、暴力団と宣撫班を含む統治機構が(プロレス的な表面上の対立の水面下で)持ちつ持たれつという昔ながらの腐りきったシステムの問題だと思うがな。もうちょっとだけ具体的な事が本文に書いてあるので興味を持った方はリンク先へ。


*1:欣註:第二次大戦後のダグラス・マッカーサーによる日本占領体制。

*2:欣註:フィリピン島。

*3:欣註:フィリピンは日本軍に「解放」される前は、アメリカにより60万人の虐殺と共に植民地化されていた(米比戦争 - Wikipedia)。ちなみに日本軍侵攻時のフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官がマッカーサーその人である(ダグラス・マッカーサー - Wikipedia)。第二次大戦後フィリピンはふたたびアメリカ領に併合された後、独立。

*4:欣註:林彪事件 - Google 検索

*5:欣註:1930年から1935年(リンク先はウィキペディア)。

*6:欣註:本多勝一 - Wikipedia

*7:欣註:新井宝雄 - Google 検索

*8:欣註:スイスは全家庭に自動小銃が常備されている国民皆兵武装中立国である。

*9:欣註:吉田茂 - Wikipedia

*10:欣註:この文章が書かれた時点ではまだ明るみにでていなかったが、例えば「日中記者交換協定 - Wikipedia」から引用すると「日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた」。(なお、Wikipedia に「政府・自民党によって頭ごしに決められたという側面がある」というソース無しの記述があるが、ここで「頭ごしに決められた」とされているのは既に何年も前から結ばれていた協定を維持する事、に過ぎず、日本のマスコミ、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞NHKが「北京の密約」を結んだ時点についての話ではない点に注意。)